東京地方裁判所 昭和58年(ワ)275号 判決 1986年7月22日
原告
安田賢一
右訴訟代理人弁護士
横地恒夫
被告
株式会社大門薬品
右代表者代表取締役
塙泰郎
右訴訟代理人弁護士
平林英昭
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
(主位的請求)
1 被告は、原告に対し、別紙物件目録記載(二)の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡し、かつ、昭和五八年一月一日から明渡ずみまで一か月金二三万五〇〇〇円の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
(予備的請求)
1 被告は、原告に対し、原告から金六〇〇万円の支払を受けるのと引き換えに、本件建物を明け渡し、かつ、昭和五八年一月一日から明渡ずみまで一か月金二三万五〇〇〇円の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、昭和五〇年一二月一日、訴外栄光ビル株式会社(以下「訴外会社」という。)から、その所有する別紙物件目録記載(一)の建物(ただし、現在の四階部分は、原告において、その後改築した。以下「本件(一)の建物」という。)を買い受けて、その所有権を取得したところ、当時、被告が訴外会社より本件(一)の建物のうち別紙図面(一)の一階平面図及び(二)の二階平面図の赤斜線部分で表示された建物部分(以下「従前建物部分」という。)を賃借していたので、原告は、その賃貸人たる地位をも承継したが、昭和五四年六月二八日、被告との間で、同年九月一五日限り、右賃貸借契約を解除する旨合意をしたうえ、併せて、原告は、被告に対し、本件建物を次の約定で賃貸した。
(イ) 期間 昭和五四年九月一六日から昭和五七年一二月三一日まで
(ロ) 賃料 昭和五四年九月一六日から同年一二月三一日までは一か月金一九万八九五〇円、昭和五五年一月一日からは一か月金二三万五〇〇〇円
(ハ) 光熱費、水道料金等の実費及び修繕費等のための負担金 一か月金五〇〇〇円
(ニ) 賃料は、毎月末日限り翌月分を、負担金は、毎月末日限り当月分を支払う。
2 原告は、昭和五七年六月二四日到達の内容証明郵便で、被告に対し、あらかじめ、右賃貸借契約の更新を拒絶する旨通知した。
3 右更新を拒絶するについては、次のとおり正当事由がある。
したがつて、右賃貸借契約は、期間満了日である昭和五七年一二月三一日終了した。
(一) 原告の自己使用の必要性
原告は、本件建物を外来患者の診療室として使用する必要がある。すなわち、原告は、整形外科医師であつて、整形外科診療所を開業していたのであるが、昭和五〇年一二月一日、訴外会社から本件(一)の建物(ただし、前記のように、四階部分は、その後原告において改築した。)を買い受けて、昭和五五年一月二〇日からは、本件(一)の建物の二階及び三階において整形外科診療所を開業してきたところ、年々(現在では一日五〇〇名以上)、患者数が増加したこと、かつ、高齢者が多いことから診療室が二階にあるのでは、階段を昇り降りせざるを得ず、身体的不自由を訴えて来院する、高齢者、車椅子使用者、松葉杖使用者その他介護を要する患者にとつて多大の困難を伴うもので不便であること、また、原告としては、一層科学的で適正な診療ができるようにしたいと考えていること、そのためには、診療所としての形態を二〇名以上の患者の入院施設を有する病院に改め、本件建物を含む本件(一)の建物の一階全体をも外来患者の診療室に当てる必要があるからである。
本件(一)の建物のうち、一階駐車場部分は、その余の一階部分が被告らの賃借部分となつているため、診療室等としては使用できない。すなわち、受付と診察とは一体となるべきものであつて、両者を含む面積としては、待合室を設ける必要性をも考えると右駐車場部分のみでは不足だからである。
原告は、増加した患者に対応するため、本件(一)の建物全体を病院に改築し、これを次のとおり使用する計画である。すなわち、
(イ) 一階部分には、待合室、事務室、薬局、薬品倉庫、診察室、レントゲン室、理学療法室、ギプス室、処理室、検査室、救急患者処理室、薬品以外の物品を収納する倉庫、職員休憩室、営繕室、当直室、管理人室、便所を設けてこれを使用する。
(ロ) 二階部分には、ナースセンター、当直室、休憩室及び更衣室、配膳室、倉庫、病室、患者浴室、汚物処理室、洗濯場、患者用面会室、集中治療室、処理室、院長室及び会議室、便所を設けてこれを使用する。
(ハ) 三階部分には、ナースセンター、当直室及び休憩室、更衣室、調理室、配膳室、病室、手術室、回復室、集中治療室、患者浴室、処理室、洗濯場、汚物処理室、患者用面会室、倉庫、便所を設けてこれを使用する。
(ニ) 四階部分には、ナースセンター、当直室及び休憩室、更衣室、配膳室、処理室、病室、集中治療室、患者浴室、洗濯場、汚物処理室、患者面会室、倉庫、機械室、便所を設けてこれを使用する。
以上の各室には、それぞれ相当の面積を要するので、本件(一)の建物全部を使用してもなお最少限度の広さしか確保できない状況にある。
なお、東京都蒲田医師会所属の原告を除く整形外科医院等三〇箇所のうち、二九箇所が一階に診療室を設置していることからも、整形外科の患者の病態上、当然に一階に診療室を設ける必要があることが明らかである。
また、被告主張のように、仮に、エレベーターを設置したとしても、一日五〇〇名に及ぶ来院患者の多数は、高齢者であつたり、手足及び脊柱、腰部等の障害により平衡感覚や運動神経に支障がある者であつて、エレベーターのように三秒前後の短時間に開閉する機械を使用することは、健康人と異なり相当な危険を伴うものであるから、エレベーターを設置することによつて解決されるものではない。
(二) 被告の事情
一方、被告は、もつぱら営利を目的として、医薬品の販売業を営むものであつて、これは、他の場所においても行なうことができるところ、すでに、他の地域(東京都大田区、江東区、神奈川県川崎市)においても店舗を所有して、右営業を営んでいる。また、被告の代表取締役塙泰郎も自宅以外に他に相当な土地建物を所有している。
しかも、被告は、約定の賃料の支払を従前より怠り、かつ、本件賃貸借契約書の作成すら拒否している。
(三) その他の事情
最近の臨床医学の著しい進歩のため、診療方法も絶えず新しいものを取り入れることに努めなければならず、また、患者の高齢化により治療日数の長期化、患者数の増加をきたしている。診療体制もこれに対応できるように、診療所を拡充して病院組織に改めるなど適切な対策を講じてこそはじめて医療面で、地域社会に貢献できるのであり、原告は、その必要に迫まられている。
4 原告は、右正当事由を補強するために、被告に対し、金六〇〇万円を支払う用意がある。
5 よつて、原告は、被告に対し、本件賃貸借契約の終了に基づき、主位的に無条件での、予備的に原告から金六〇〇万円の支払を受けるのと引き換えに、本件建物の明渡と終了日の翌日である昭和五八年一月一日から右明渡ずみまで一か月金二三万五〇〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
1 請求原因1のうち、原告が昭和五〇年一二月一日、訴外会社から本件(一)の建物を買い受けて、その所有権を取得したこと、当時、被告が訴外会社より本件(一)の建物のうち従前建物部分を賃借していたので、同日、原告は、その賃貸人たる地位を承継したこと、原、被告間で、昭和五四年七月二四日、賃貸借の目的物を本件建物とし、原告主張の(イ)ないし(二)の約定が交わされたことは認めるが、被告と訴外会社間の従前賃貸借契約が合意解除されたことは否認する。
2 同2は認める。
3 同3は争う。
4 被告の主張
被告は、昭和三七年六月ころ以来、訴外会社より従前建物部分を賃借し、また、昭和五四年七月二四日からは、本件建物を賃借して、地域住民の軽医療に力を尽すべく、できるだけ安く医薬品を提供するという方針で医薬品等の販売業を営んでいる。現在、年商約二億二〇〇〇万円、顧客数五〇〇〇名余、本件建物での従業員は、一〇名であり、地域に深く根差した活動が好評を得て、顧客数も増加している現状にある。
原告は、本件(一)の建物のうち、一階の現在駐車場として使用されている部分(約六〇坪)、二階(約一二六坪)、三階(約一二六坪)、四階(約四〇坪)を使用できるのであるから、通常の病院経営には充分すぎる程の広さがある。したがつて、一階部分に診療室を作る必要があるとすれば、右駐車場部分を利用すべきであり、階段を昇るのが患者にとつて不便であれば、二階に通ずる階段をスロープ状にしたり、駐車場部分に、エレベーターを設置することによつてこれを回避できる。
原告は、被告が従前建物部分を賃借して右販売業を営んでいることを承知のうえで、訴外会社から本件(一)の建物を買い受けたものであり、その際、原告は、従前の賃貸借契約はそのまま承継し、かつ、本件(一)の建物のうち一階部分は、使用する意思がない旨約束した。しかも、被告は、従前建物のうち二階部分を事務所及び倉庫として使用していたのに、原告が整形外科の診療所を開設するということから、原告の申し出により右二階部分を撤退し、多大の労力と費用とをもつて本件建物に移動したという事情があり、現在、被告が本件建物を賃借しているのは、原告の要望に基づくものである。
また、原告が本件建物を使用して診療所を拡張するという計画は、原告の経済的利益追及のためでしかないし、高齢化に伴う高齢患者数の増加については、原告が被告に対し、本件建物に賃借部分を変更させた時点においてもすでに存した問題であり、原告も予想していたことである。そして、そもそも、高齢化社会及び老人医療の問題は、社会全体の中で解決すべき問題であつて、被告を本件建物より退去させるべきか否かという問題ではなく、右は正当事由の一つとなりえない。
身体の不自由な患者にとつて、診療室が一階にあつた方が望ましいとしても、これも原告において十分承知していたことであり、しかも、一階部分の駐車場を診療室にすることによつて解決されるのに、原告は、右の努力をしようとしない。また、多くの大病院においては、二階以上に診療室がある。
以上によれば、原告には、本件賃貸借契約の更新を拒絶するについての正当事由はないものというべきである。
三 抗弁
被告は、右期間満了後も、本件建物の使用を継続している。
四 抗弁に対する認否
認める。
五 再抗弁
原告は、昭和五八年一月四日ころ到達した書面で被告に対し、右につき異議を述べた。
六 再抗弁に対する認否
認める。
第三 証拠<省略>
理由
一次の事実は、当事者間に争いがない。
原告は、昭和五〇年一二月一日、訴外会社より本件(一)の建物(ただし、現在の四階部分は、原告において、その後改築した。)を買い受け、その所有権を取得した。被告は、当時訴外会社より従前建物部分を賃借していたので、同日、右賃貸人たる地位は、原告に承継され、原、被告間に従前建物部分についての賃貸借契約が成立した。その後、原、被告間に、本件建物についての賃貸借契約が成立し、期間は、昭和五四年九月一六日から昭和五七年一二月三一日まで、賃料は、昭和五四年九月一六日から同年一二月三一日までは一か月金一九万八九五〇円、昭和五五年一月一日からは一か月金二三万五〇〇〇円、光熱費、水道料金等の実費及び修繕費等のための負担金は、一か月金五〇〇〇円、賃料は、毎月末日限り翌月分を、負担金は毎月末日限り、当月分を支払うものとの約定が交わされた。
原告は、昭和五七年六月二四日到達の内容証明郵便で、被告に対し、右賃貸借契約の更新をあらかじめ拒絶する旨通知した。しかるに、被告は、右期間満了後も本件建物の使用を継続している。そこで、原告は、昭和五八年一月四日ころ到達した書面で、被告に対し、右につき異議を述べた。
二原告は、訴外会社と被告間で締結され、原告がその賃貸人たる地位を承継した従前建物部分についての賃貸借契約(以下「従前の賃貸借契約」という。)は、昭和五四年六月二八日、原告と被告との間で、同年九月一五日限り、解除する旨合意され、原、被告間で新たに、本件建物につき、前記争いのない事実のとおりの約定で賃貸借契約が締結されたと主張する。
しかしながら、原告主張の右合意解除を認めるに足りる証拠はなく、かえつて、<証拠>によれば、昭和五四年七月二四日、原、被告間に、従前の賃貸借契約を延長する旨の合意が成立し、それ以前に取り交わされた原、被告間の合意等はすべて破棄する旨合意されたこと、ただし、同年九月一五日以降は、賃貸物を従前建物部分から本件建物に改定する旨の合意がされたことが認められ、そして、原告及び被告代表者の各本人尋問の結果によれば、従前の賃貸借契約における敷金は、原、被告間の右賃貸借契約にもそのまま承継されていることが認められる。
右によれば、原、被告間に、昭和五〇年一月二〇日、従前の賃貸借契約が承継され、昭和五四年七月二四日、賃貸物を本件建物に改定する旨の合意が成立したというべきであつて、原告主張の合意解除がされたうえ、新たに、本件建物についての賃貸借契約が成立したと認めることはできないといわなければならない。
したがつて、原、被告間には、被告と訴外会社間の従前の賃貸借契約が承継されたうえ、その後、賃貸物を本件建物に改定する旨の合意がされ、前記争いのない約定による賃貸借契約が成立することになつたというべきである。
そうすると、原、被告間に存する賃貸借契約は、原告主張のような新規の賃貸借契約ではなく、従前の賃貸借契約であつて、ただ約定が改定されているにすぎないというべきところ、原告の意思としては、右の主張が認められないときは、現に存するとされる賃貸借契約についても更新の拒絶をする趣旨であると解される。
三そこで、原告主張の正当事由について判断する。
原告の主張する自己使用の必要性は、要するに、原告は、本件(一)の建物の二階及び三階で整形外科診療所を開業しているが、年々、患者数が増加し、しかも、高齢者が多いから、二階に診療室があるのでは、二階に通ずる階段を昇り降りせざるを得ず、身体的不自由を訴えて来院する、高齢者、車椅子使用者、松葉杖使用者その他介護を要する患者にとつては、多大の困難を伴うもので不便であること、また、原告としては、診療所を病院組織に改め、一層科学的で適正な診療ができるようにしたいと考えており、そのためには、本件建物を含む本件(一)の建物の一階を外来患者用の診療室に当てる必要がある、というにある。
しかして、一般論としては、原告主張のように、整形外科医師の診療を受ける患者にとつて、その疾病の病態ないし性質上、階段の昇り降りの用などがないことが好ましいことはいうまでもないことであり、また、診療所よりは人的及び物的にも十分に整い、しかも、最新かつ、科学的な医療設備の備わつた病院で診療を受けることは好ましい場合が多いことはいうまでもないのであるが、しかし、必ずしも常にそうでなければならないということもないことは経験則上明らかであつて、軽微または容易に治療しうるものもあるのである。そしてまた、原告は、現状においても、僅か四、五年の開業にもかかわらず、しかも、二階以上での診療にもかかわらず、患者数は年々増加し、高齢者も増加していることは後記認定のとおりであり、現状のままにおいては、原告の患者数が減少し、ひいて、原告の生活の基盤を脅かすことになるというものでないことも明らかである。
してみると、原告が本件建物を含む本件(一)の建物全体を一つの整形外科診療に当たる病院施設とし、その一階を外来患者用の診療室に当てる必要性とは、つまるところ、原告の診療所としての施設を拡張し、かつ、更に、多くの患者を診療できるようにしたうえ、入院設備を設けようとするものであることは明らかである。したがつて、このような場合は、原告の自己使用の必要性は、被告の本件建物における営業の必要性とに比し、相当程度これを上まわるものでなければならないというべきであると解するのが相当である。
以下、この点にかんがみて検討することとする。
1 原告の自己使用の必要性について
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) 原告は、整形外科医師であつて、昭和四八年七月一日からは、本件(一)の建物の近所の二階で整形外科医院を開業していたところ、三〇坪足らずの診療所であつたため手狭になり、昭和五〇年一二月一日、将来の移転先として、本件(一)の建物を買い受けた。同建物には、被告を含む十数名の賃借人が居たので、原告としては、直ちに移転することはできなかつた。そこで、原告は、順次、賃借人らと交渉し、その明渡を求めたところ、本件(一)の建物の二階については、被告の従前賃借部分を除き、明渡を得られたので、被告ともその交渉を重ねた結果、原告は、二階において開業することとし、そのため、被告は、一階部分に移動する旨の合意が成立し、昭和五四年七月二四日、原、被告間に、賃貸物を従前建物部分から本件建物に変更する旨合意された。そして、原告は、昭和五五年一月二〇日から、本件(一)の建物の二階で整形外科診療所を開業することとなり、昭和五八年六月ころには、三階についても明渡を得られたので、原告は、これをも診療所として使用するに至つた。
(二) 原告は、非常勤(土曜日の午後を主として担当する)医師一名と看護婦四名、補助員三名、マッサージ師及び理学療法関係者八名、管理人一名、事務員三名の合計二一名の人員で右診療所を営んでいる。
(三) 本件(一)の建物は、鉄筋コンクリート、軽量鉄骨造陸屋根亜鉛メッキ鋼板葺四階建の建物であり、床面積は、一階が四〇六、九三メートル、二、三階が各四一七、四三平方メートル、四階が一三〇、九一平方メートルである。各階には階段で通じており、一階から二階へは、二〇段位の階段が設置されている。
現在、原告は、一階のうち、六、六平方メートルを山田屋履物店こと山田こうに、一九、六平方メートルを千鳥屋洋品店に、一五九、一八六平方メートルを被告に賃貸しており、残り(約六〇坪)を駐車場として原告車と事務長車のために使用している。
(四) 原告は、本件(一)の建物の二階を主たる診療所として使用しており、ここに、待合室、事務室兼薬品倉庫、第一、第二診療室、理学療法室、レントゲン室、手術室兼処置室及び事務室と兼用の薬局を設置している。三階は、緊急の患者用として使用しており、他に、備品室、倉庫、カルテやレントゲンフィルムの保管室、職員の更衣室がある。
(五) 四階には、もと木造一戸建の住居が存したが、原告は、昭和五四年から昭和五五年にかけて、これを取り毀し、病室用に鉄筋コンクリート造りに改築したが、現在は使用していない。
(六) 原告が本件(一)の建物の二階で開業してからの外来患者数は、一日当たり、昭和五五年度が二五〇人から三〇〇人位、昭和五六年度が三〇〇人から三五〇人位、昭和五七年度が三五〇人から四〇〇人位、昭和五八年度が四〇〇人から四五〇人位、昭和五九年度が五〇〇人位である。
外来患者の大半は足腰の悪い者であり、高齢者も多く、松葉杖をついたりする者もいるが、現在、車椅子使用者はいない。
(七) 蒲田医師会地区において整形外科を専門科目と標榜する医院等は、数箇所であり、蒲田四丁目には、原告のみである。外来患者は、川崎、横浜及び蒲田地区の者が多いが、高齢者は蒲田地区の者が多い。
以上のとおり認められる。なお、高齢の患者が原告の患者のどの程度の割合を占めるかは必ずしも明らかではない。
原告本人は、階段を昇降して診療を受けるのは、外来患者にとつて不便または危険であり、そのために治療半ばにして完治しないまま治療を放てきする者が非常に多い旨供述するが、他にこれを裏付ける証拠もないからたやすく措信しがたいし、また、原告本人は、より充実した、より高度な、より安全な、より科学的な治療を患者に施すためには病院を建設しなければならないと供述するが、現状において、原告の診療設備に不備があると認めるに足りる証拠がないばかりでなく、原告の右所期の目的を達するのには、人的、物的に設備が整うことが必要であるということができるが、だからといつて、必ずしも病院組織にしなければならないということにはならないというべきであるから、たやすく採用できない。
また、原告方診療所に来院する患者が前記のようであるとすれば、バスや電車を利用したり、歩いて来る者が殆んどであると認められるから、僅か二〇段程度の階段の昇降に支障を感ずる者もいないのではないかと考えるのが自然である。
もつとも、診療室が一階に存する方が階段を昇降して二階以上で診療を受けるよりも、患者にとつては利便であるといえるとしても、右認定事実によつて認められる本件(一)の建物の構造、規模等に照らすと、右階段を更に緩いものに改めるとか、スロープ状にすることによつても、右の不便は、容易に、改善できるものであり、本件(一)の建物において、右の改善策を講ずることが不可能であるとする証拠はない。
また、右階段を廃して、エレベーターを設置することも考えられないではなく、エレベーターの使用が整形外科診療所に来院する患者にとつて一般的に危険であるということはできないし、仮に、エレベーターの使用に支障があるような患者であれば、そもそも家族等の付添があるものといえるし、原告の職員がこれを介助すれば足りるということもできる。
そしてまた、原告が右階段をスロープ状に改めることや、エレベーターを設置することの可否及び本件(一)の建物を病院組織に改めることについて、資金の調達、見積りの検討、業者の選択等につき、具体的な計画の実施まで検討したことを認めるに足りる証拠はなく、更に、本件(一)の建物の一階には、被告のほかになお、前記二店舗の賃借人がいることが認められるから、現段階では、右実施は困難であるということができる。また、約六〇坪の駐車場として使用されている空間が存することからすると、原告が必ずしも本件建物を外来患者用の診療室として使用しなければならない必要性はいまだ認めることができないというべきである。
2 被告の事情について
(一) <証拠>によれば、被告は、スーパー業務を主とする会社であつて、他に、薬品、化粧品、雑貨等の小売りも営んでいるところ、現在の従業員は六〇名余である。年間の総売上は、約一五億円である。店舗としては、本件建物のほか、昭和四一年九月以降昭和五三年三月ころまでに取得し開業するに至つた東京都江東区亀戸に二店舗、大田区中央に一店舗及び神奈川県川崎市に一店舗があり、本件建物がその本店たる地位を占めている。本件建物では、医薬品、化粧品及び雑貨を中心としており、亀戸店の一店舗でもこれと同様の販売をしているが、小規模であり、残る三店舗は、生鮮食料品を主に扱うスーパー業務が主たるものである。本件建物での年間売上げ額は、約三億円であり、被告における医薬品の総売上げ三億円のうち約二億円を占めている。医薬品関係の販売の方が利益率が高く、本件建物での純益は年三〇〇〇万円である。本件建物における従業員は一〇名で顧客数は約五〇〇〇世帯、一日当たりの顧客数は約六〇〇人であり、固定客は二五〇〇名位である。南蒲田地区及び蒲田地区に居住の者がその顧客の主なものであり、駅前に所在し立地条件も良好なことから顧客数も伸びている。被告は、昭和三八年七月ころ、本件(一)の建物の一部を訴外会社から賃借したが、順調に発展したことから、順次、借増して、昭和四八年ころには従前建物部分(一階に三箇所、二階に倉庫と事務所)を賃借するに至つた。
しかるに、原、被告間に、昭和五四年七月二四日、従前建物部分を本件建物に改定する旨の合意が成立したが、その際、原告は、右改定に伴う移動のため改築を原告においてすることを約し、また、その費用のうち八五〇万円は原告が負担し、更に、示談金一五〇万円を支払い、その間、一階空室部分は仮店舗として被告が使用することを許し、前記千鳥屋洋品店に賃貸している部分が将来明渡されたときは、同一の条件で被告に賃貸する旨約した。
そして、右移動は、原告が本件(一)の建物で整形外科診療所を開業するのに必要なことであつたことから、特に、原告の申し出に基づいてされたものであつて、これにより、被告は、二階から退去し、一階に全部移転することとなつたものである。
(二) <証拠>によれば、被告は、原告から昭和五七年六月、立退きを求められた後、独自に移転先を探してみたものの、本件建物のような駅前に近いという立地条件を満たす物件は見当たらず、しかも、本件建物での収益を考慮すると、これを撤退することは被告としては、その存続に重大な影響があるものとして、できないと判断したことが認められる。
右によれば、被告は、すでに、本件建物以外にも四店舗を有し、医薬品等の販売を主たる業とする店舗も一店有するが、依然として、本件建物の収益の占める割合は高く、また、その本店たる地位にかんがみると、本件建物における営業継続の必要性を否定することはできないというべく、また、これを中止すれば、被告としては莫大な損害を受けるものと推認される。
なお、<証拠>によれば、被告の代表取締役である塙泰郎は、昭和五七年一〇月、塙トシウと共に、大田区蒲田に所在の土地建物を取得したことが認められるが、これを被告において店舗として使用できるものと認めるに足りる証拠はないから、右事実をもつて、本件建物での被告の営業の必要性を否定することはできない。
3 その他の事情について
(一) 原告は、被告は、本件建物についての賃貸借契約書の作成すら拒否していると主張するが、前記のとおり、被告と訴外会社間の従前の賃貸借契約が原告に承継されたのであるから、もともと、新たに契約書を作成するまでもないのであり、また、<証拠>によれば、原、被告間に、昭和五四年七月二四日、前記移転に関する合意がされたのは、原告の申し出によるものであるから、その際に作成された覚書(乙第一号証)にも、その旨記載されているので、被告は、新たに賃貸借契約書を作成する際にもこれを条項として、記載することを原告に求めたところ、原告においてこれを拒否し、右記載のない契約書を作成しようとしたことからこれに署名しないものであることが認められ、また、<証拠>によれば、新たに賃貸借契約書(甲第一四号証)を作成すべく準備したことが認められるが、<証拠>によれば、原告がこれを被告に呈示したこともないことが認められるし、右甲第一四号証の記載文言によれば、いわゆる新規の賃貸借契約書の形式を有しているのであつて、被告が要請した条項はこれに記載されていないことが認められるから、原告が新賃貸人として、また、本件建物についての賃貸借契約書としてこれを作成しようとしたことは理解できないことではないが、右事実を前提とすれば、被告が右契約書に署名することなくこれを作成しなかつたとしても、被告を咎めることはできないといわなければならない。
(二) 本件賃貸借契約の約定によれば、被告は、毎月の賃料を末日限り翌月分を支払うべきものであることは前記認定のとおりであるところ、<証拠>によれば、被告は、原告に対し、右約定に従わず、当月分の賃料を当該月に支払うことがほとんどあり、中には二、三か月も遅滞したことがあつたことが認められ、右遅滞については、被告代表者は、忙しさにまぎれて遅れたと弁解するのみであつて、これを正当化しうる事情は認められない。しかして、賃料支払債務は、賃貸借契約における主要な債務であるから、被告としては、賃借人としての債務を必ずしも誠実に履行していない憾があるといわなければならない。しかしながら、<証拠>によれば、被告が当月分の賃料を当該月に支払つているのは、原告に賃貸人たる地位が承継された当初からであり、しかも、当該月に支払つているといつても、必ずしも月末まで遅滞しているのではないことが認められるうえ、原告も被告の右賃料の支払につき何らかの異議を述べてその是正方を求めた形跡も認められないのであるから、右一事のみをもつて、原告主張の正当事由あるものとは認めることができないといわざるをえない。
(三) また、近時、平均寿命が延びていることは公知の事実であつて、<証拠>によれば、一般的には、高齢者の増加とこれによる医療費が急増していることが認められるが、原告の現状における診療体制がこれに対応できない程不備であると認めるに足りる証拠もなく、原告における外来患者の中で高齢者がどの程の割合を占めるのかも前記のとおり具体的には不明である。
(四) 原告本人は、蒲田医師会地区においては、整形外科を専門科目と標榜する医院等は、数箇所のみであるから、原告において本件(一)の建物全体を病院に改築する必要があると供述するが、しかし、右一事のみから、原告において本件(一)の建物を病院に改築する必要性があるとは到底認めることができないというべきである。
以上1ないし3に認定判断したところによれば、原告は、本件(一)の建物の二階及び三階で、非常勤の医師一名と共に、整形外科診療所を開業しているところ、現在、一日五〇〇名位の患者が来院していること、患者には、その疾病の病態ないし性質上、四肢の不自由な者もおり、高齢者もいるが、右開業以来、原告の患者は、年々、増加していること、そのため、原告としては、本件建物を外来患者用の診察室に改築し、更に、本件(一)の建物全体を改築して、入院患者二〇名以上を収容しうる病院組織に改めたうえ、設備も整えて、一層科学的な医療に当たりたいと考えていることが認められる。しかし、一方、原告は、本件(一)の建物にすでに一〇数名の賃借人がいることを承知してこれを買い受けているのであり、しかも、被告との間では、原告の申し出によつて、昭和五四年七月二四日、賃貸物を従前建物部分から本件建物に改定する旨の合意をしているのであつて、その際、本件(一)の建物一階の他の賃貸部分も、将来、明渡を得られたときは、被告に賃貸する旨約していることが認められる。また、被告は、昭和三七年六月ころから本件(一)の建物の一部を賃借し、現在まで一貫して医薬品等の販売を主たる業としてきたものであり、現在、本件建物での年商は約三億円、顧客数約五〇〇〇世帯、固定客は二五〇〇名位であること、従業員も一〇名勤務していることが認められる。もつとも、被告は、本件(一)の建物を賃借してから、他に四店舗を有するに至り、医薬品等の販売も営むようになつたが、うち三店舗は、スーパー業務が主であつて、医薬品等の販売で主たる地位を占めているのは、依然として本件建物であつて、しかも、右四店舗の本店たる地位を占めていることが認められる。そうして、医薬品等の販売業の利益率が高いので、本件建物における収益は、被告全体の中でも大きいことが認められる。
そうすると、原告は、現状においても、年々、患者数が増加しているのであつて、このまま推移するとすれば、原告の診療所としての存続ないし経営に支障があるとも認められないのであり、更に、本件建物を診療室に使用するのでなければ、その存立に重大な支障が生ずるとも認められないし、診療室が二階以上にあることから、患者が治療半ばにして通院を中止し、また、患者数が減少するに至つたことを認めるに足りる証拠も全くないのに対し、被告は、本件建物以外にも四店舗を有して営業しているものの、医薬品等を主に販売する店舗は本件建物と他の一店舗のみであつて、本件建物が本店たる地位を占め、かつ、医薬品等の販売面では主たる地位を占めているばかりでなく、二〇年以上にわたり営業を継続してきたことにかんがみると、本件建物における営業の基盤は、確固たるものがあると推認されるのであり、いま、被告が本件建物を立退くとすれば、右基盤を失うことになるのであつて、前記顧客をも失い莫大な損失を受けることは容易に推認されるところである。しかも、原告は、本件(一)の建物の二階で整形外科診療所を開業すべく、被告との間に本件建物を賃貸物とする旨改定した際も、原告主張の右各事情は、当然予想しえた筈のものであつて、それを承知のうえで、あえて二階で右開業をしたものといわざるをえないのであり、僅か三年余にして、右を理由に更新を拒絶するのは相当ではないというべきである。
なるほど、原告が整形外科診療所を開業しているのであるから、身体の不自由な者や高齢者が患者として来院することがあることはそのとおりであると思われ、したがつて、できるだけその負担を取り除くには、一階に診療室が存することが望ましいということはできる。しかし、それだからといつて、診療室が一階でなければならないということにはならないというべきである。そして、二階以上に整形外科の医院等が多数存することも公知の事実であるし、入院患者二〇名以上を収容し得る病院組織に改めなければならないということもできない。この理は、最新の設備を整え、一層科学的な診療を施す場合においても同様であるといわなければならない。
また、本件(一)の建物一階には、約六〇坪の空間が存し、原告車ら二台の駐車場として使用されていることが認められるが、右の程度の空間があることにかんがみると、一階から二階に通ずる前記階段を更に段差の少ないものに改めるとか、あるいは、スロープ状の通路にするとか、または、エレベーターを設置することも不可能ではないと考えられるのに、原告本人は、危険である旨供述し、何ら具体的に実施の可能性を検討した形跡がないし、一般的に、エレベーターの利用が危険であるともいうことができない。
そしてまた、原告において、本件(一)の建物を病院組織に改める必要性があると主張するにもかかわらず、その場合に備えた人員の手当て、資金の調達、業者の選択等につき、いまだ何らの具体的対策も講じられていないというべきであるから、その必要性が緊迫しており、その計画を現実性あるものとして検討しているとは到底認めることができない。
以上によれば、原告に本件賃貸借契約の更新を拒絶するにつき正当事由があると認めることはできないし、原告がこれを補完するものとして、金六〇〇万円の立退料を用意していることは訴訟上明らかであるが、前記認定事実にかんがみると、右金額程度の立退料の提供をもつてしては、右正当事由を補完し、これあるものとするに足りるものではない。
四以上の次第であつて、原告の請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官後藤邦春)
別紙物件目録
(一) 東京都大田区蒲田四丁目一八番地一、一八番地二
家屋番号 一八番一の二
鉄筋コンクリート、軽量鉄骨造陸屋根、亜鉛メッキ鋼板葺四階建店舗・事務所・居宅
床面積
一階 四〇六・九三平方メートル
二階 四一七・四三平方メートル
三階 四一七・四三平方メートル
四階 一三〇・九一平方メートル
(二) (一)の建物のうち一階部分のうち別紙補正図面赤斜線部分(約一五九・一八六平方メートル)
別紙図面<省略>